小さな不満が起こすもの
第百四十三話 事件



 ナラはターシャが少し沈んでいることに気がついていた。
 喜怒哀楽が欠如しているかのような無表情をしている子だったが、それでも二ヶ月も一緒に暮らしていれば、小さな小さな見落としてしまいがちな、少女の感情の片鱗に指先が触れることがある。
 フレスコにもリュンにも――他の誰にも言ってはいないけれど、ナラは確信していた。
 この子は、皆が思うよりもずっと賢く、きっと表情を出さない裏側でいろいろなことを考えているに違いない、と。
 ただいくらナラとて、まさかターシャが誓王都ルミリオンから放たれた刺客である、という発想に行き着くはずもなく、ごく自然に、両親に森に捨てられた痛みを負っている多感な子なのだと思っていた。時折見せる、何も映さない横顔は非常に気になるところだが。
 朝餉の汁をターシャに渡しながら、ナラはさりげなく聞いた。
『ねぇ、ターシャ。最近、村の子たちとはどうだい?遊んでるのかい?』
『ひとりが好き』
『そうかい。でもね、皆で遊ぶのもそう悪いものじゃないよ。無理強いはしないけどね』
『うん』
 こくりと頷くターシャにナラは優しく笑いかける。
『それに、もうすぐユルークの星祭りだからね。楽しみにしておいで』
『ユルークの星祭り?』
 興味を示したのか子どもが顔を上げる。シーシアの子どもたちと違い、肌は真っ白で、色素の薄い髪をしている。
 すでに親ばかなのかもしれないが、ターシャはきっともっと大きくなったら村一番の別嬪さんになる。ナラはそう確信していた。
『そうだよ。南西の空に二つ星があるだろう?』
『カレとマニの星』
『おや、そんな名前なのかい?ターシャ、すごいね。ちゃんと知っているなんて。あの二つを合わせて、シーシアではユルークの星と呼ぶんだよ。右側の星――』
『カレ』
『カレだね。男星って私らは言っているけど、カレが、左の女星――マニと三年に一度、会える日が星祭りなんだよ』
『会う?それって、星と星がくっつくということ?』
 ナラはターシャに首を振るった。
『違うよ。あれはカレとマニという恋人同士の魂で出来た星なんだ。そして地上で結ばれることを許されなかった二人が、空に昇り、三年に一度だけ会うんだ』
 ターシャはじっと黙った。
 なんだ作り話かと思ったが、三年に一度しか会えない恋人同士というのは、物語として哀しくて美しいと感じたのだ。
(私はアービュ様とあと十年以上会えない)
 恋人同士でもないし、アービュにそんな想いを抱いたことはないけれど。考えるだけで恐れ多い。
『星祭りでなにをするの』
『村のみんなで大きなたき火を囲んで、歌を歌って、おいしいものを食べて、星を眺めて、二人が会えていますようにと祈るんだよ』
 それに何の意味があるのだろう。
 眉根をよせた子どもの、すべすべの頬をナラはそっと触った。
『ターシャ、今はまだ判らないかもしれないけど、自分が好きだと思った人に、同じように好きだと思って貰える。想い合うということは、それ自体が奇跡なのさ』
『……』
 そんなことが奇跡なのだろうか?
 想い合う?
 それに何の意味があるのだろう。
 ターシャは愛など信じていない。そんなものは言葉でしか存在しないものだ。
『判らない』
『判らなくていいんだよ。今はまだ。でもいつかお前も夜空を見上げて、ユルークの星を真摯に見つめるときがくるだろうよ。――本当に、誰かを愛した時にね』



 そんな話をした後だったからだろうか。
 外に出たターシャは、少女たちが星祭りの話をしているところで、思わず足を止めた。
『あら、ターシャ』少女の中心的存在であるユユがターシャを目敏く認めた。『今日は私たちと遊んでくれるのかしら?』
 無視して、森か海へ行こうとしたターシャに鋭い声が追いかける。
『待ちなさいよ、ターシャ。もうすぐユルークの星祭りだってことは知ってるの?』
『ナラに聞いた』
『そう。じゃあちゃんと知ってるのね?星祭りの日、子どもたちは親にヒュスカの花を贈るってこと』
 ヒュスカの花?
 確か、木に咲いている薄桃の八重花だったように思う。ターシャは記憶を探りつつ、ナラはなにも教えてくれなかったことに、少し疑問を感じた。
 ユユは近寄ってくるとターシャの腕を触った。
『ナラは教えてくれなかった?でもしょうがないわ。だってナラは一緒に住んでるけど、別にあなたの――ねぇ?』背後の少女たちに声をかけると、ほかの子も薄笑いのようなものを浮かべる。『あなたは本当の親に……ねぇ?』
『……そうね』
 ターシャは呟いた。
 自分がどこで産み落とされたかも、父親は誰だったのかもしらない。気づいたらターシャは貧民街で「母親のようなもの」と暮らしていた。
 人として扱われたことは一度もなかった。アービュと出会うまでは。
 本当の親?
 それがなんだというのだろう。
 本当だろうと嘘だろうと「親」と呼ばれるものの中には、その名を冠するにふさわしくない下劣な人間は腐るほどいる。
 だが――
『ヒュスカの花ね、ありがとう』
『!』ターシャの言葉にユユの目が丸くなる。『あなた、花を探すつもり?ナラのために?』
『ナラには養ってもらっている。その恩がある』
 ユユは難しい言葉の意味が判らなかったのか、曖昧に頷いたものの、どうやら目の前の無愛想な少女はナラのために花を探そうとしていることを理解すると、こくりと頷いて、笑みを浮かべて見せた。
『えらいわ、ターシャ。なら特別に教えてあげる。私たち、ヒュスカの花が咲いている場所を知ってるの』



 バイスは家の裏井戸で顔を洗って小屋の中に戻ろうとすると、ちょうど隣の小屋から出てきたターシャを見つけた。そのすぐ後にナラが出てきて、小さな手提げ鞄を渡している。
『いいかい、森の奥には行っては駄目だよ。獣もいるんだからね』
『うん』
『薬草は奥まで行かなくても十分に採れるんだからね』
『うん』
『キリキリの森に薬草を採りに行くのか?』
 新たな声が割り込んだことに驚いたターシャが目を見張って振り返る。こぼれそうなくらい大きな目だとバイスは思った。
『おや、バイス。今頃帰ってきたのかい?昼ご飯は冷めちまってるかもよ』
 ナラがからかうように声をかける。
『いいんだよ、爺さんが作るご飯はやたら鍋で煮るから、ちょうどいい熱さになってるはず。それより一人で大丈夫か?何なら俺も一緒に行くぞ』
『平気』ターシャはそれだけ言うと、ナラに向き直って、『いってきます』と頭を下げる。
 さっさと歩いていく姿にバイスが頬を膨らませた。
『なんだよ、あれ。本当かわいくないなー』
『おやおや、バイス。お前さんにはまだターシャの可愛らしさが判らないんだねぇ』
『あいつがかわいい?だって、ぜんぜん笑わないんだぞ』
 ナラはバイスににっこり微笑んだ。
『笑わない子が可愛くないなんて誰が決めたのさ?見せてもらいたいなら笑いかけて貰えるよう、頑張りな。あの子が笑ったら、きっと村中の腕白小僧たちは夢中になっちまうよ』



 キリキリの森は深い。
 さすがは薬草の宝庫と言われているだけの森だ。それにアービュから学んだイシュバの森やオミクレー雨林と違い、凶悪な獣が棲んでいるという話も聞いたことはない。
 気候のせいだろうかとターシャは思った。
 こんな陽気な光が降り注ぐ場所で、生物は苛々することなど無意味だと理解できるのだろう。
 ターシャは村からかなり離れた場所まで分け入ると、達者な足で森に躊躇なく踏み込んでいった。ユユたちが教えてくれた場所はかなり遠い。しかもそこが群生地なのだと教えてくれたのだ。
 ヒュスカの花。
「……」
 ナラは自分の親ではない。そんなことは馬鹿でも判る。彼女は森に捨てられた子どもを哀れんで育ててくれようとしている他人――それだけだ。
 それでも、ターシャはナラの人柄に触れるにつけ、人とはこのように違った存在なのかと驚きを隠せなかった。もしもナラに子どもがいたら、どんなにか幸せを与えて貰えることだろうと。
(そういえば、ナラは結婚しなかったんだろうか)
 誰もなにも言わないけれど。
 しばらく歩き続けてきたターシャは、方位磁石を手にして立ち止まり、再び歩き始める。気づけば、ナラのことや村のことを考えながら、ずいぶんと奥まできたようだった。
 そう。
 これはアービュの命を果たすために、自分を引き取ってくれた大人や村の人たちを欺くためにも必要なこと。ある程度の潤滑として、自らの面倒さを飲み込まなければならない。
(それだけだ)
 ひらり。
 目の前を淡い何かが通り過ぎる。
 何だろうかと目で追っていたターシャは、踏み出した足を滑らせた。
「!」
 天と地が逆さまになった。



「え?ターシャが戻らない?」
 リュンの声が入り口から聞こえると、バイスは布を押し上げて顔を出した。
 小屋の前で暮れた空を背景に、ナラがリュンと向かい合っていた。
「そうなんだよ、リュン。薬草を森に採りにいったっきり、戻ってこないんだよ。最初は少し遊んでいたいだけだろうと思ったんだけど……」夕飯の頃には必ず帰ってきていた子どもは、待てど暮らせど戻らない。「森へ探しに行ってくれないかい」
「ああ、もちろん。村の皆で手分けして探しに行こう。大丈夫さ、ナラ」リュンがナラの肩を叩いた。「きっと夢中になって遊んでるだけだ。ひょっとしたら、今頃慌てて戻ってきているかもしれない」
「ターシャが戻らないのか」
 バイスが声をかけると大人二人は振り返った。
「ああ、だけど心配ないよ、バイス。父さんたちがちょっと森まで迎えに行ってくるからね」
「俺も行く」
「お前は駄目だ。大人たちで探しに行く」リュンはからかうような目つきで息子を見た。「お前を夕暮れの森になんて連れて行ったら、きっとお前まで探す羽目になるからね」
 結局、リュンは言葉通りバイスを連れて行かなかった。五・六人の男と森へさっさと向かっていく姿を、頬膨らませながら見送った。
 こういうとき子どもっていうのは、それだけでなにも出来やしない。
 つまらない、ああ、つまらない!
 バイスは柵に腰掛けて足をぶらぶらさせた。
『バイス』
『?』
 か細い声が聞こえ、振り返ると薄暗闇の中にユユの顔があった。
『あの子……ターシャが戻らないって、ほんと?』
『らしいな。俺、昼過ぎに森に薬草を採りに出かけたところ見たんだけど、帰ってこないってナラが言いに来たんだ』
『……』
 いつもは勝ち気そうな目をしている少女が、なぜか今はおどおどしている。
『心配してるのか?ユユ、優しいな』
 しかしバイスの言葉に少女は激しく首を振るった。
『や、優しくなんてないわよ、私は、ただ……』
『父さんたちが探しに出かけたから、すぐに戻ってくるさ。森にだってそんな遠くまで入らないだろ』
 シーシアの子どもたちにとって森は格好の遊び場だったが、その半面、自然の恐ろしさを教えてくれる場所でもあった。
 うっかり口にしたら舌が十日間はびりびりしてしまう実や、少し中まで入ってしまえば子どもの腰の背ほどの獣もいる。それに、もっと奥深くには、不思議な沼がある。トゥネパの沼だ。
 そしてその奥には洞穴があって――
『バイス……』
 ユユが気づくとすぐ近くまで来ていた。バイスの腕を握りしめてくる。掌は冷たいのに汗を掻いていた。
『どうした、ユユ』
『……いわ』
『え?』
『きっと、あの子、見つからないわ』
『なんで』
『……教えたの、今度の星祭りで、子どもたちは親に贈り物をするんだって』
『星祭り?』呟いた後、バイスの顔が険しくなった。『おい、それって』
 ユユは泣き出しそうな顔をした。
『だって!あの子ってば、あなたに失礼な態度だし、友だちにもなりたくないみたいな、ひどい態度で……』
『まさかヒュスカの花の群生地を教えたのか?』
『だって!』
『信じられない』
 バイスはユユの腕を引き離すと、柵から飛び降りた。
 駆けだしていこうとするバイスの背後から泣き出したユユの声が追いすがる。
『そ、そりゃ……ちょっとはやりすぎたかもしれないけど、バイスだって、おもしろくないって思ってたでしょっ!』
『思ってたさ』
『だったら』
『だったらなんだ?あいつは、森に捨てられたんだぞ!』
『……、』
『そのあいつを、また森に迷子にさせるなんて卑怯だと思わないのかっ!』
『!』
『こんなことして、意地悪いと思わないのか。どんなに怖い思いしてるか考えないのか!』
『だ、だから、どうしていいかわからなくて、バイスのところにきたんじゃない!』
 バイスはぐっと唇を噛んで、怒りを飲み込もうとした。ユユの言いたいことは判る。村の子どもたちは皆、ターシャを何とかしたいと思っていた。
 しかしバイスは正々堂々の喧嘩を望んでいたのであって、こんな卑劣なことをしようと思っていたわけじゃなかった。
 背を向けて走り出した。
 ヒュスカの花の群生地は子どもたちも知っている。キリキリの森の深い場所だ。
 そして近くには崖がある。
 だからシーシアで産まれた子どもは、親に口酸っぱく言われるのだ。
『森を歩いてて、ヒュスカの花が宙を舞いだしたら、足下を見るようにするんだよ』と。
 ターシャがそれを知るはずもない。



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