その小さな綻びから
第百四十話 歪みに泣くのは誰?



 ドタっと鈍い音が小屋の中で響くと、タンドリアはふと目を覚ました。一つしかない寝床で眠っていたはずの女が身体を起こして立とうとしたらしい。
 転がっている様子を見て、慌てて飛び起きた。
「お、おい、あんた、何してんだい。駄目だよ、まだ」
「……っ」
 無理矢理寝床に押しつけると、タンドリアは怖い顔をして見せた。
「傷は塞がってるが、まだ中の筋肉は完全には繋がってねぇ。それに化膿してたせいで免疫力も極端に下がってる。無理は絶対に駄目だ」
「……」
「大丈夫。食欲も出てきたし、きちんとおとなしくしていれば、あんた若いんだ、すぐに良くなる」
「貴方は、医者なの?」
 ターシャは今まで疑問に思っていた言葉を吐いた。素人が病人を診ているという感じではない。薬の調合もきちんと行っているし、古ぼけてはいるが薬研や分銅器も置かれている。
 ただ医者にはあんまり見えないというだけで、ターシャに施してくれたことは、言ってはなんだがこんな雨林の中に住んでいる人としては十分過ぎる。
 タンドリアは照れたように、まんまるした指で頬を掻いた。
「医者ってほどじゃあねぇよ。俺はそんな偉い人じゃあ。だけど、数年前にな、医者と呼ぶにふさわしい人の傍で働いてたことがあるんだよ。そのときに色々なことを教わったんだ」
「そう……」
「シコク様は良く言ってた。今は月恨術による治療が進んでいるけど、そしてたぶん、それは悪いことだけじゃなく良いことだってあるだろうけど、本当はああいう治療じゃなくて、人の身体の速度にあった治療が必要なんだって」だから、とタンドリアは笑う。「あんたには、ちょっと歯がゆいかもしれないけど、俺の治療はゆっくりだ。んでも確実だ。それであいこってことで許してくれ。な?」
 許すも何も。
 タンドリアが拾ってくれなければ、自分の命はとうに尽きていただろう。
「礼をしたいけどお金がない」
「んなもの要らない。この雨林で暮らすのに金なんて、まるで必要ない」
「……」
 ターシャは微かに唇をあげた。
 お金がまるで必要ない村を他にも知っている。
 自分はそこで心が満たされることを知った。
 温かいものとは、どういうことかを。
「……なに?」
 ターシャの頭にタンドリアの大きな手が乗っかった。子どものように撫でられている。
 警戒よりも意味の判らなさが先行した。
「泣きたいなら泣くといい」
「別に泣きたくない」
「うん、泣くことは恥ずかしいことじゃないぞ」
「だから別に泣きたいと思ってない」
「そうか?」まるきり信じていない顔でタンドリアは笑う。「なら、いいんだ」
 顔を背けたターシャの頭を、ぽんぽん叩いた後、タンドリアは「さぁて、朝ご飯作るかな」と歩き出す。
「何が食べたいかい?」
「――肉」
 ターシャの言葉にタンドリアがわっはっはと笑った。



 いつも聞こえていたカルの笛が聞こえなかったから、レンもある程度、予想はしていたが、バルバルの木にやはりイシカが居ないことを確認すると、空のはずの瓶が背中で重く感じられた。
 んーふ、とミモザが足にすり寄る。
「大丈夫です、ミモザ。さ、水を汲みに行こう」
 教えてもらった水溜まりで水をたっぷり汲み入れ、背負って小屋に戻る。
「あ、おかえり、レン君。ご苦労様」
 璋子が昼食を作って出迎える。レンは笑って「ただいまです」というが、その声に元気がないのを感じると、璋子はじっと幼子を見つめた。
「お友だち、居なかった?」
「……はい」
 ひっとり、と璋子にくっついて子どもはしょんぼりする。鍋で野菜を煮込んでいた璋子は木べらから手を離して頭を撫でてあげると、「向こうの子も、きっと吃驚しちゃったんだよ。また数日したら現れるかもよ」と言った。
「でも、でもでも、現れなかったら?」
「うーん」頸を傾げつつ、璋子は言った。「もう現れなかったら、レン君はその子のこと、友だちとは思えないの?」
「そんなことないです!」まだ数回しか会っていないけれど、笛を吹いたり、言葉を教えあいっこしたり、楽しかった。「あ」
「?」
「でも僕……あの子の名前、知らない。僕も教えてないです」
 璋子の腰に両手を巻き付け、ぎゅっと抱きついてくる姿を見下ろしつつ、やはりこの土地は少しおかしいし、サクの村も何かあるのだと思わずにはいられなかった。
 よほどレンはしょげたらしく、その後、サナたちが口にするほど璋子の傍にはりついて離れなかった。
 いくらレンが賢いと言っても、八歳の子どもなんだからと喜音やバイスは笑っていたけれど。



 イシカの母、イナは怪訝に思っていた。
 数日前から子どもの様子がどうもおかしいと感じていたからである。雨林で何か楽しいことでも見つけてきたのか、今まで見たこともないほどに機嫌が良さそうにしていたと思ったら、小屋から一歩も出ないくらいに塞ぎ込んでいる。
 どうしたのと聞いても、何でもないとしか言わない。
 イナはイシカが今までに何度も声を殺して泣いている姿を見たことがある。
 まさか村人が直接子どもに酷いことを言ったのだろうか、と気を揉んだが、夫のマウラは「それはない。おばばが約束してくれた」としか言ってくれなかった。
 イシカは十一年前に生まれた。
 サクの村にとっては実に十二年ぶりの子どもだった。
 イシカたちの部族が、子どもが非常に生まれにくい体質ということもあったし、懐妊しても子どもが無事生まれてこないことも多かった。それに何より、子どもはもう生まずに、部族は滅びを待つばかりだという、どこか厭世的な空気がずいぶんと前からあって、比較的若い世代でも婚姻を結ばない男女が増えている。
(カヌエがもっと皆を取りまとめてくれていたら――いいえ、そんなことを思ってはいけない。カヌエはきっと……)
 それでもイナはイシカを身ごもった。
 無事生まれてきたときは神に感謝した。
 その神はハーナではなく、イナが生まれし時より、イナの心にある「神」だった。どのような神か、名前は何というのか知らない。けれど確かにイナの心に寄り添い、イナの成長と人生を見守ってくれている。
 そう。サクの村の皆が、何故イシカを生んだのかと冷たい目を向けても、イナはイシカを生んだことを悔やんだことはなかった。唯一その気持ちが揺らぐときは、イシカが一人で泣いている――そのときだけだった。
 マウラと一緒に守っていくと決めた大切な子。
 けれど、イシカは実際に生まれてきてどうだっただろうか。
 同い年の子どもは居なく、大人に囲まれ、しかも大半の大人からは「何故お前は生まれてきたのだ」という冷たい目で見られ、言葉はなくともその肌でざらりとした空気を幾度も味わってきただろう。
 イナはイシカが大きな声で笑っているとこを見たことはない。いつからか子どもは冷めた目でふらりと雨林へ遊びに行き、十一歳よりも大人びた表情で笛を吹いている。
『?』ふと気配を感じて振り返ると子どもが背後に立っていた。目が爛々としている。『どうしたの、イシカ……』
『母さん、どうして俺以外に子どもはいないの』
『!』
『どうして、俺は遊ぶ友だちがいないの』
『……イシカ』
『俺はいつか、……村でたった一人になるの?他のみんなが死んで、俺だけが残されるの?』子どもの痛烈な問いかけにイナは答えることが出来ず、胸を押さえて喘いだ。『母さん!』
『!』
『俺は今すぐ大人になれないのっ?俺だけが残されるなら、みんなが死ぬとき、俺も死にたいよっ!母さんが俺を殺してくれるのっ?』
『イシカ……っ!』
 振り絞るような悲鳴が喉から這い上がり、子どもの腕を掴んだ。
 けれどそれを振り払って、イシカは小屋を飛び出していく。慌てて追いすがろうとしたが、あっという間に子どもの姿は橋を飛び降りて消えていった。
『!』
 隣近所の小屋から暗い目が自分たちを見ている。イナは掻き抱くように自分の身体を部屋の奥へと引っ込めた。
 頭を振るった。
『……違う、イシカ、……違う、そんなこと』
 死にたいだなんて。
 言わないで――
 イナは震えながら顔を覆った。



 紫色の夕暮れが潮風と共に辺りに満ちる。
 じっくりと煮込んだチキタと野菜の大皿、焼きたてのヤット、サナと家坂が採ってきてくれたマウナイの実を冷やして食卓に並べた食事は、誰もが無言でかっこむほど美味しかった。
 とりあえず璋子の作るご飯は有無をいわさずに、降伏させる力を持っている。ほろほろと口の中で崩れるチキタを頬張りながら、サナはうっとりとしたため息をついた。
「タマコ……あんた、台所の精霊の化身でしょ?今なら本当のことを言っても驚かないわよ」
「おかわりあるよ、サナ」
「食べる!」
 さっ!と小皿を璋子に差し出す。
「お姉ちゃん、俺も!」
 ささっ!と家坂が差し出す。
「キオ……お前、とうとうタマコをお姉ちゃんと呼ぶことにしたのか」
「悪いですかぁ?」
「悪くはないというか、しっくりくるな」
 バイスが笑う。
「レン君、おかわりする?」
「はい、ちょっとだけ欲しいです」
 レンは空になった小皿を両手で璋子に渡そうとして、中腰のまま固まった。
 からんからんからん、と小皿が手から滑り落ちる。
「レン君」
 大丈夫?と言い掛けた璋子は子どもの目が入り口に釘付けになっているのを見ると、振り返った。
 そこには小さな姿が一つ。
「……」
 止める暇もなくレンが脱兎のごとく駆けていく。璋子も中腰になり、レンが手を握った相手をみた。子どもだった。
 すぐにピンときた。きっと喋っていた例のサクの村の子どもだ――
「レン君、中に入れてあげたらどうかな?」
「……、なか、はいる?」
『……』
「どうかした?」
『……俺』子どもが呟くと、ぼろりとその目から涙がこぼれる。『俺、――母さんに、ひどいこと言っちゃった……どうしよう!』
 わっ!と声をあげて泣き出すと、レンは目を見開いて、小さな手で子どもの頭を何度も摩った。
「どうしたの?ねぇ」
「――落ち着いて。ね?お母さんと喧嘩しちゃったの?」
『!』子どもが驚いた顔で璋子を見た。目の前の人間は確かに部族の言葉を喋っていた。『どうして、言葉が』
「うん。私は話すことが出来るから、だから落ち着いて。中に入って。お茶を淹れてあげるから」
 璋子がにっこり微笑み、竈のところまで歩いていくと、レンは子どもの手を取って、「どうぞ」と部屋の中を手で示した。夕餉だったのか食卓を囲んでいる人々が自分を見てくる。
 少し尻込みしかけたが、意を決し足を前に出した。
 もうここまで来てしまったのだ。やっぱり無し、だなんて男のすることじゃない。
「レン、お友だち?」
 サナの言葉にレンは頷いた。
「はい。彼、サクの村の子どもです。僕が水を汲むときに出会って、仲良くなりました」
「サクの村の?へぇ……だが、あそこは」
 バイスはおばばの言葉を思い出したのか顔を顰めて見せる。
「でも、友だちになっちゃいけないなんておかしいと、僕思います」
「ま、そうだな」
 バイスは笑ってからチキタを頬張った。璋子は茶碗にお茶を淹れてくると、子どもの前に置いた。
「どうぞ。お口に合うといいけど」
『……』
 ぺこりと頭を下げてから子どもは茶碗を手に取った。そして少し宙に掲げてから、口をつける。
 何か意味のある動作なのだろうか。
 鼻水をすすりながらもお茶を飲み干し、子どもが茶碗を床に置くと、璋子は優しく話を切りだした。
「少しは落ち着いたかな?」
『……うん』
「良かった。じゃあ、さっきの話、出来るかな?」
『うん、……俺、あ』子どもは顔を上げた。『俺、イシカって言うんだ。名前も名乗らないで、ごめん』
「私はタマコだよ、この子はレン」
 レンの方を見て言うと、イシカは『レン』と呟いて頷いた。
『俺、サクの村で生まれたんだけど、あの村には子どもは俺しかいないんだ』
「イシカ君しか居ない?他はみんな、大人……ってことかな?」
 イシカはこくりと頷いた。
『俺たちの部族は、とても子どもが生まれにくい部族で……お母さんのお腹に宿っても、ちゃんと生まれてこないこともあるんだって。おばばが言ってた。だからかなり前から、俺たちはいずれ全員いなくなっちゃう運命なんだって。だから、子どもは産まない方がいいんだって大人たちは思ってる』
「……」
『でも十一年前、父さんと母さんは俺を産んでくれた。村では十二年ぶりくらいの子どもだったって。だから、俺は生まれたときから同い年の子と遊んだことは一度もなかったし、大人たちは……父さんや母さんに、何で俺を産んだんだって、酷いこと言ったりした』
「……そうだったの」
『だから俺、早く大人になりたくて、母さんたちがそんなこと言われなくても良いように、早く大人になりたいって――思ってたんだけど……』ちらりとイシカはレンをみた。『こいつと会って、ちょっとの間だったけど、初めて同い年くらいの子と遊んで、……すごい、楽しかったんだ。友だちと遊ぶって、こういうことなのかなって』
 おばばに言いつけられていたことは判っている。本当はレンとの接触自体が間違っていた。
 けれど――それは本当にいけないことだったのだろうか?
 イシカには判らなかった。
「おばばさんたちは、島の外から来る人たちに対して、とても警戒心が強いよね。前からそうなの?」
『……うん。数年前にタンドリアっていう男がやってきて、この島に住みたいって言ったときも大騒ぎしてた。村の近くには住まわせないで、島の反対側に小屋を建てさせて……、タンドリアは悪い人間じゃないって判るまでに何年もかけて、今は少し交流を持ってる。それくらい、おばばたちは村以外の人たちと会うのを極端に嫌がってるんだ』
 璋子はそれをワーデルタ語に直しながら、皆に話すと、それぞれが何ともいえない表情を浮かべて見せた。
「何故、そこまで拒否するんだろ」
 家坂が呟くと、しかしバイスとサナは複雑そうな顔を浮かべた。
「全く判らないわけじゃないわ。種族、それこそ部族にもよるだろうけど、こんな離島で生まれて、そこから一度も出ることない人生を過ごすのなら、世界はここだけでしかないでしょ?排他的になるのは自然なことかも」
「そうだな……シーシアだって、そういう部分が無かったわけじゃないしな。あの時、タマコが言葉を喋ることが出来たっていうのは、ある意味で緩衝材になったし」
「サクの村人は月喰いを極端に忌み嫌っているみたいだしな」
 喜音の言葉に璋子は床に視線を落とした。
『でも、俺は、ほんとに、こいつと遊んで楽しくて、何で他に子どもがいないんだろうって……ずっと本当はすごく哀しかったことに、気づいたんだ。小屋に遊びにおいでよって言ってくれて、すごく嬉しかったのに、それも許してもらえないなんて、哀しくて』
「イシカ君……」
『だから、俺……哀しくて、腹が立って』イシカの唇が震えた。『母さんに……怒鳴っちゃったんだ。何で子どもが他にいないのって。俺はサクの村でいつかたった一人で暮らさなくちゃいけないのかって。もしそうなるんだったら、母さんが俺を殺してくれるのかって――一緒に死にたいって』
 ぼろぼろ涙がこぼれてくる。
『お、俺のこと、産んでくれた、か、母さんに、あんな酷いこと言っちゃったんだ!』
 璋子はイシカを引き寄せると、よしよしと頭を撫でてあげた。
「そっか。イシカ君は、酷いこと言っちゃったって、ちゃんと判ってるんだね。なら、家に帰ったら、ちゃんとお母さんに謝ること出来るよね?」
『うううっ、ううっ』
「でも哀しかったんだよね?ずっと友だちと遊びたかったんだよね?」
『なんで、……なんで、俺だけ』
『イシカッ!』
「!」
 小屋の中に低く怒りに満ちた声が響きわたった。
 璋子たちが入り口を見ると、そこにはカヌエが仁王立ちしていた。



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