人は、誰も知らない痛みを持っている
第百三十五話 サクの村



 家坂(いえさか)は、おばばを見上げながら、今まで出会ったフレスコといい、ビブリナのローヘンといい、長老的存在がいかにも老たけている小柄な人物だったせいか、その大きな体躯の――しかも女性に、すっかり驚いていた。
 いや、大柄の女性で、長老であることにまるで反対意見は無いが。
「カヌエ、どの子だい」
「あの軟弱そうな男が背負ってる奴だ」
「ふん、そうか。お前には「判る」のかい」
「杖を持っていて気づいた」
「なるほどねぇ……」そこでおばばはしゃがれた声で、見上げている者たちに言った。「カヌエから事情は聞いた。その月喰いが回復するまで、このサクの村の外れの小屋を貸してやろう」
「助かる」
 バイスが声を出すと、おばばの目が片方細まった。
「なんだい、ムロ族の血を引いたものが、月喰いと一緒にいるだって?」
「……俺の血は確かに一部そうかもしれないが、ムロ族だと思って生きてきたことは一度もない。俺は、シーシアに住むミナゲシ族だ」
 きっぱり言うとおばばを同じように睨む。ふん、とおばばが鼻で笑った。
「そうかい、あんたがそう言うのは勝手だがね、残念だが人は見かけで多くのことを判断する生き物だよ」
「俺は違うとしか言えない」
「やれやれ」
「おばば」
「ああ、案内しておやり。他の者にはあたしから説明しよう。ばったり遭遇してもうっかり殺さないようにね」
「!」
 びくりとレンが震え、それがサナの手に伝わった。サナも内心では恐ろしかったが、子どもの手をしっかり握りしめ返した。
 やはりこのオミクレー雨林、恐ろしい。
(でもさっき、サクの村って言ってたわね……。サクの村……)
「……」
 喜音(きね)は黙っていたが、背中の荷物から大きな布を取り出すと、璋子を背負っている家坂の肩と腰に、璋子(たまこ)を巻き込むようにして縛った。
「喜音?」
「こうしないと梯子が上れないだろ」
「あ、そっか……サンキュ」
 喜音はミモザを抱え上げると、肩にしょいこむようにして、梯子をあがっていく。その後をバイスが続き、サナが続き、レンが続いて、最後に家坂が璋子を背負って上った。
 全員が上がり込むと、カヌエはちらりと見ただけで歩き出す。ついてこい、ということなのだろう。
「ちょっと、キヨノ」
「何」
「タマコを落とさないでよ」
「落としまーせーん!」
 怪しいという顔をしつつ、サナも不安定な足場に気をつけるように歩いていく。
 カヌエが案内してくれたのは居住区の中でも端で、屋根代わりの大きな葉の幾つかはすでに茶色く変色していた。
 青年は入り口の前で立ち止まると、扉のように立てかけていた板を外し(それには紋様が描かれていた)、右足で二回、左足で三回地面を叩き、両手打ち、左肩、右肩を手のひらで払う仕草をして、道をあけた。
「……何、今の」
 サナが尋ねると、カヌエは面倒くさそうに口を開く。
「しばらく誰も住んでいなかった家に誰かが新しく入り込むときは、虚の主に挨拶するのが礼儀だ」
「うろのぬし?」
「誰もいない家に住む精霊のことだよ」
 さっさと入れ、とばかりに手を振るので、仲間はぞろぞろ中に入り込む。
 閉め切っていたとはいえ、元々家の作りは隙間が多く、窓に垂れ下がっているのも布だ。むっと籠もった空気を取り替えようとバイスが布を押し上げると、紐が切れてどさりと地面に落ちる。
「うわっ」
「ちょっと、何してるのよ」
「いや、これ、既に駄目になってんだろ」
「大事に扱えよ。換えは無いからな」冷たくカヌエは言うと、部屋の中をぐるりと見渡し、隅に置いてあった瓶を覗いて、せせら笑った。「こりゃ、中で完全に発酵してんな。洗う奴はご愁傷様」
 先ほどからカヌエの態度に空気が徐々にぴりぴりし始めていることを家坂は感じた。
 わざと煽っているのか、何なのか。サナなどいつ切れてもおかしくないような表情で、カヌエを何とか無視しようと、全く違う方向を見ている。
「井戸はどこですか」
 ふと、その場にはっきりとした、澄んだ声が響いた。
 はっとしたように、カヌエは辺りを見渡し、それから瓶の側にいる小さな子どもを見た。
「……」
「井戸はどこですか?僕、洗ってきます」
「レン、」サナは怒りの色を落として、落ち着いた声を出した。「いいのよ、その瓶はレンには大きすぎるから。金髪馬鹿にでも――」
「さっきのおばあさんも言ってたし、バイ兄は、ここに居た方がいい。僕が行ってきます。子どものほうが、ここの方たちも警戒しないもの」
「ミモザ」喜音が呼んだ。「チビと一緒にいってくれ」
 んーふー
 レンの側に行くと喜音は瓶を手に取った。そこまで重くはないが、八つの子どもには重たいだろう。もう一度荷物袋から布を取り出し、瓶をレンの背中に負わせる。
「頼んだぞ、チビ」
「はい」
「ミモザも」
 んふ!
「カヌエ」
「……」
「井戸の場所を教えてやってくれ。案内したくないなら、今、口頭で教えてやれ。チビは頭がいいから覚える」
「……、あ、ああ」苦虫潰した顔になって、カヌエはレンを見た後、ガリガリと頭を掻いて呟いた。「わーったよ。井戸はまた梯子を下りなけりゃならないんだ。案内する。――ついてこい」
「はい。いってきます!」
 レンとミモザが出て行くと、サナは喜音の腕を掴んだ。
「ちょっと、キネ」
「大丈夫だ。チビはああ見えて、相当したたかだ」
「したたか?レンが?一番縁遠そうな言葉なんだが」
 バイスが言うと、喜音は喉を鳴らして笑った。
「お前ら、しっかりしろよ。あのチビは生まれてこの方、どんな環境で生きてきたかをもう忘れたのか?花街の中心、花篝だぞ」
「そうだけど」
「チビにかかれば、あの白髪(しらが)なんて相手にもならないんじゃないか」
 少なくとも、先ほど口を挟んだタイミングは抜群だった、と喜音は思う。あの空気が徐々にざらついていたのを、おそらく聡い子は感づいたはずだ。
 緊張した空気を分散させる呼吸。あのミヤコワスレの傍に赤ん坊のころから居れば、自然に会得も出来るだろう。
「レンってば、やりおるな……」
「ていうか喜音……白髪って、あんまりじゃない?」
「おい、ダメ虫、早く星屋の寝床を作れ」
「ちょぉ――っ?俺っちの格好見てちょっ?星屋さん、背負ってるんですけどーっ?」
「やれることをするんだろ」
「そうだけどっ!」



 意識を失っている女を何とか自分の小屋まで運んだタンドリアは、寝床に女を置くと、竈で火を熾し始めた。この雨林に住み着くときに、おばばから竈はあまりこの土地では歓迎されない代物だから、大きな火は熾さないでくれと言われたことがある。
 しかし今は人の命に関わる。
 急いで大鍋に水を汲み入れると、ゴウゴウと沸かし始める。湯が沸き立つまでに、傷をみようと寝床に戻り、「すまんな」と言って、女の上着をめくった。
「!……こりゃ、……まさか、自分で?」
 かなり乱暴ではあったが、生々しく刺されたような傷跡をぎこちなく縫ってあった。
 鍛錬された男でさえ、麻酔もなしに自分の腹を縫うだなんてそう出来る芸当ではない。タンドリアは驚きで言葉を失っていたが、慌てて丹念に傷口を確認した。
「……膿は、ああ、やっぱり。消毒はしてなかったんだな。ここから細菌が入って、感染引き起こしたんだろな。ちょいとごめんよ」タンドリアは女の瞼をそっとこじ開け、それから口を開くと、指先を軽く押し込んだ。指についた唾液の粘着が少ない。「万癒の泉が一番いいんだろうが、ここからだと反対側まで歩かなけりゃならねぇ。多分、そんな時間はないはずだ。……うん、ここで踏ん張るしかないな。だよな、シコク様」
 ぶつぶつ呟きつつ、片方の壁一面に据え付けられた棚から、いくつもの小袋を取り出し、沸きだしている湯の中に確かめながら投入していく。
「――、ス」
「?」
 何か呼ばれた気がして振り返ったが、女は青白い顔で唇を閉じている。
「うん、まってろ。助けてやっからな」
「……」

 忘れられない夜空が、三つある。

 一つは、アービュに「私の元へきますか」と手を差し伸べられた日の、夜。
 薄汚い町の路地から、アービュの手を握りしめ、未だ夢としか思えずに町の門を抜けたときに見上げた濃紺色の星空。初めて、空は広いのだと知った。
 あのとき、自分の人生は新しく生まれ変わるのだと思った。
 二つ目は、アービュに「貴女に頼みたいことがあります」と言われて、置き去りにされた子どもを装い、あの深き森キリキリで見上げた夜空。
 あのとき、自分の人生は大きく動き出したと思った。初めて信頼を覚えた人の役に立てる時がきたのだと。
 そして最後の三つ目は――。
 シーシアで知り合った隣の家の少年、バイスと初めて歩み寄ったときに見上げた夜空だ。
(何故、こんなことを思い出すのだろう)
 ターシャは混濁する意識の中、思った。
 死ぬから、だろうか――
 そう、死ぬのだろう。
 自分とて、アービュに命を受けたときから、もっとはっきり言えば、アービュに手を差し伸べられた瞬間から、この命はアービュのためにあり、彼が望むのであればどんなことでもしようと決めていた。だから、死ぬこと自体に恐怖があったかと言えば、思ったよりも遙かに受け入れている節はあった。
 だが、どうしても受け入れがたいほど苦痛だったのは――アービュの役に立てず、挙句に彼に見放されたことだった。
 月喰いを仕留めることだけを自分は目的としていたのに。
(……、アービュ様は、)
 もしかしたら。
 私がシーシアで長く生きる間に目的を違えたと思ったのだろうか。何度かの襲撃に失敗したのも、気が緩んだ結果で、最早私は使うに値しないと――?
 そうだとするならば、アービュとはもう久しく会ってはいないけれど、隠し事一つ出来ないのは相変わらずなのかもしれないと思った。
 決して目的は違えてはいない。
 信条が揺れたこともあったけれど、それでも自分は本分を忘れずに、璋子を――月喰いを討とうとした。
 しかし、その信条を揺らしたのは多くのものだった。
 シーシアの長閑な気候、穏やかな人たち、慎ましいながらにも温かな生活、豊かな色彩。
 ナラの温かい手、フレスコの穏やかな声、友だちの恋の話、男たちのくだらない馬鹿騒ぎ。
 それは容赦なくターシャの心に侵入し、「要らない」と腕を出さない自分の周りに群がって、「嘘だぁ」と笑いかける。
 それが数年も続けば、絆されてしまうのが自然ではないか?
 いや、それも言い訳に過ぎない。
 だが――

「ほうっておいて。なんであたしにかまうの」
「だって、おまえ、まだここにきたばっかだし、」
「うるさい!よけいなおせわよ。あんたなんかにしんぱいされるほど、あたしはばかじゃないわ!」
「!」
 歩きかけた私の腕を掴もうとした気配があったから、思わず身体をずらした。
 するりと手は外れ、一瞬、何故自分が私の腕を掴めなかったのか判らなかったのか、ぽかんとした顔をしていたっけ。
 でもすぐにぎゅっと唇を引き結んで、彼は私を睨んだ。
「ターシャ、おれは、おまえをばかだなんておもってない。ただ、ここにもっとはやくなれればいいとおもっただけだ」
「もうなれた」
「うそだ」
「……」
「うそだ、おれ、わかる。だっておまえ、わらってない」
「!」
「みんなとあそんでるときだって、おまえ、ほんとうはわらってない。おれたちのこと、なんだこいつらってかお、してる」
「して、ない」
「してる。おまえ、わらってない」
「……っ、だ、ったら、なによ」
「だからおれは、もっと、」
「だったらなんなの。あたし……、あたし、あんたがだいきらい!」

 あんたが、だいっきらい!

「……、」
 重たい瞼が開きたくもなさそうに開いた。身体全体がずっしり重くて熱く、指一本動かすのすら億劫だった。
(どこ、ここ)
 濁った視界に茶色と緑の天井が見える。
 息を吸い込もうとすると、腹部が途端に引き攣ってターシャは呻いた。
「――お、おお?気づいたか?」
「……、」
「ここだ、ここ」
 ひょいと顔がのぞき込んでくる。
 小山?とでも突っ込みたいほど豊満といえばいいのか、大柄な男だった。
 その目は豆で出来てるの?というほどに、つぶらな目が、じっと自分を見下ろしてくる。
「あんたな、三日、意識なくて、うんうんしてたんだ。俺、浜辺であんた見つけてな。小舟の中で怪我してたから、家に連れ帰って治療したんだ」
「……」
「どうだ、気分。ま、良くはないよなぁ。んでも、意識が戻ったならもう大丈夫だ。あ、水いるか?」男は背後を振り返って、細い竹筒を手に取った。丸く傷つけないように先端を削ってある方をターシャの口元に入れると、ゆっくり反対側から水を注いだ。「吃驚しなくていい。これ、ちょっとずつしか水は落ちない仕組みになってっから、最初は唇や口内を湿らすといいぞ」
「……」
 瞬きをして、了承の意を示す。
 伝ってくる水の感触を唇が受け止めると、本当に少しずつ口を潤した。それからちょっとずつ口の中に溜めて、ゆっくり飲む。
 喉を通って、胃の腑に落ちていくのが判った。
「……ここ、どこ」
「ここか?ここは、ニールビア諸島にある二番目にでっかいシヤカム島だ。ああ、そうだ。俺はタンドリアって名だ。数年前から、ここで暮らしてる」
「……ひとり、で?」
「ま、一人でだな。んでも、少し歩いたところにオミクレー雨林で暮らしている人たちがいるから、まぁ完全に一人ってわけじゃあないな」
「オミクレー……、そう、そんなとこまで」
 自分は流されてきたのか。
 ターシャはぽつりと呟く。
「私、生きてるのね」
「ああ、生きてるぞ。良かったな」
「……」
 良かっただろうか。
 だがそれを見知らぬ人が一所懸命看護をしてくれ、良かったなと言ってくれている側で、「そうだろうか」と口に出すのは躊躇われた。
 もっとも、昔の自分なら口に出していたかもしれないが、そんなことを今言いでもしたら、きっと村の母親はターシャが気を失うほどに平手打ちをするだろう。
 シーシアに長く居過ぎた。
 自分はもう、あの穏やかなものを手放すことが出来ない。
(……母さんに会いたい)
 目の前がぼやけたのをターシャは瞬きして堪える。
「さ、水をもう少し飲め。しばらくしたら、熱い粥を食べさせてやるからな」



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