君がいい時も、悪い時も味方である。それが友人。
第百三十三話 ともだち



 滑りやすい苔に足を乗せると、足の甲までじわりと透明な水が溢れてくる。サナが今まで見たこともないほどの分厚い苔だった。
 辺りを見渡せば、不可思議な植物で溢れている。形が奇抜だったり、色が突飛もなかったり、時折聞こえてくる鳥の声に驚きながら、前を歩いていくカヌエの後を必死で追った。
 カヌエは決してサナを待ってはくれなかった。それどころか雨林に置いてきぼりにでもしたそうに、迷いなく足を進めていく。
 本当ならとっくに「少し待ちなさいよ!」と叫ぶところだが、それをしないのは、少しでも早く璋子(たまこ)を泉に運ぶことが一番に優先されることだと知っていたから。
 そのためなら、サナはどんなにカヌエが足を早めようと文句を言えるわけがない。
 二日も漂流していた間の疲弊で、頭が半分以上機能していないことも感じていたが、足が動く間は、手が枝をつかむ間は、その場に倒れるわけにもいかない。
 そうして歩き続けて、どれほど経過しただろうか。くねくね曲がった酷い蔓の一群からサナが何とか這い出ると、目の前に泉があった。カヌエがその泉の近くに璋子を置いている。
 慌てて駆け寄り、「これが泉?」と尋ねる。
「ああ、そうだ。万癒の泉だ。そいつの衣服を剥いで、傷口を泉にちゃんとつけるようにして、沈めろ」
「判ったわ」カヌエは背を向けると、歩き出す。「ちょっと、どこに行くの」
「俺がここにいたら、またお前はあの変な道具で吹っ飛ばすだろが。少し離れてる。毒を抜き終わったら呼べ」
「判ったわ」サナは璋子の指から杖を振って落とすと、茂みの向こうへ行こうとしている男に声をかけた。「カヌエ」
「あ?」
「有り難う」
「何で、ここで礼?毒がちゃんと抜けたら言えよ。……ま、さっきも言ったが、泉に入れるのはかなり荒療治だからな」
「判った」サナはそれだけ言うと、さっさと璋子を泉に入れるべく、衣服を取り除いていく。毒に侵された腕や肩にはなるべく触らないようにして、靴や靴下も脱がせていく。「タマコ」
「……っ、」
「タマコ、今から毒を身体から直接抜くために、泉に入るわよ」
「う、サ、ナ」
「気づいた?気分はどう?」
「……」
 璋子は頸を横に振りたいのか縦に振りたいのか判別つかない頭の振り方をした。サナは左肩の下に自分を差し込んで、泉に向かった。
「さ、入れるわよ」
 璋子の足先が入った。ゆっくりと身体が沈んでいき、傷口が水に触れた――瞬間だった。
 まどろむような状態だった璋子の口から絶叫が溢れた。
 もがくように泉から這い出ようとする。慌てたのはサナだ。
「タ、タマコ!」
振り回した両手がサナを激しく叩き、肩を出して璋子が荒い息を吐いた。
「……っ、っ!」
「しみるのね?泉はその毒に効くって聞いたから、つれてきたの。かなり乱暴な……治療方法だけどって……」
「……っ、そう、判った」
 草を強く握りしめている手がぶるぶる震えている。ひょっとするとただ入っているだけでも辛いのかもしれない。
「タマコ」
「だいじょぶ、……治さなく、ちゃ、だいじょう、ぶ」
「……」
 サナはぎゅっと唇を引き結ぶと靴を脱ぎ捨て、自分の肩に荷物から取り出した布をぐるぐるに巻き付けると、泉の中に自らもじゃぶじゃぶと入り込んだ。
「あたしに掴まりなさい、タマコ。あんたが泉から暴れて出ないように私が抱きしめててあげるわ」さぁ、と璋子の腕をとると、自分の身体に巻き付ける。「辛かったら、この巻いている布を思い切り噛むといいわ。食いしばれるからね」
「……」璋子は何も言わないでサナの背中に手を回した。「……頼んで、いい、かな?」
「もちろんよ」
「ごめん、……有り難う」
「必ずあんたを助けてあげる」
 いくわよとサナが言うと、二人の身体が一気に泉に沈み込む。
 肩の傷口から強烈な痛みが差し込まれ、璋子はサナの身体が折れるんじゃないかというくらい握った。口から痛みへの叫びが溢れそうになると、泉に口を付けて水中で叫んだ。
 容赦なく、傷口に鋭い刃物を差し込んでくる感覚。頸から腕にかけて焼け付くような痛みに涙が溢れた。
 いっそもがれた方が楽だ!いっそ!
 耐えきれず布を噛んだ。
 サナはもがく璋子の身体を必死に押さえつけながら、何度も繰り返し言った。
「頑張って、タマコ!私は大丈夫だから、強く握りなさい!」
「……っ!」
「大丈夫よ、平気になるまで、あたしがいる!……っ」水面に出ようとする身体と格闘していたサナは勢いよく息を吸い込むと、泉の中に璋子と共に潜った。「!」
 水中の中で、璋子の腕の傷口から赤黒いものが溢れている。毒だろうか。粘着質のあるそれは行き場を探しているかのように、うねうねと漂っている。サナは足で壁を蹴るとそこから遠ざかろうとした。
「っ、はっ!」水面に顔を出し、むせかえっている璋子に、「もう一度潜るわよ!」と声をかけて水に入り込む。
 もとより自分より身長がある少女を抱き抱えているのだ。あっという間に体力も奪われていくばかりでなく、呼吸を求めて肺が苦し気に悲鳴を上げている。
 苦しみ続ける友人を押さえつける。ただその解毒が少しでも早く終わることだけに意識を集中させる。そうでもしなければ、やっていられなかった。
 何度目かに潜った後、璋子が以前のように暴れないことに気がついた。
 よく見ると傷口から出ている毒の量が少なくなっている。感覚のない腕と足を動かして、サナは岸辺によった。
 ひゅう、ひゅううと喉から息が漏れる。困ったことに岸辺にあがる力すら残っていなかった。
「……出し切るまでは、ここに浸かってないとね」
「……、」
「タマコ。生きて、る?」
「……ん」
「痛みは、どうよ、」
「怖いくらい、抜けてる……けど、」璋子も息絶え絶えに喋っている。「身体が少しでも動くこと、拒否して、る」
「……あら、偶然ね。私もよ」
 途端、二人の上に大きな布がばさりと被さった。何事かと思っていると、そのまま一気に岸辺に引き上げられる。
 必死で布から顔を出すと、カヌエが仏頂面のままサナたちを見下ろしていた。
「毒はかなり抜けたようだな。あとは煎じ薬で何とかなるだろ」
「そう……、助かったわ、カヌエ。引き上げてくれなきゃ、私たち、あのまま泉に浸かったきりだった。ね、タマコ」布をあげてみると、璋子は気絶していた。体力気力共に削りすぎたのだろう。しかし先ほどと違って穏やかな表情に、サナは安堵を感じた。「……良かった」
「なにもお前まで入ることないだろ」
 呆れたように言いながらも、カヌエは足下にバラバラ薪を置いていく。どうやらここで火を熾してくれるらしい。
「嫌なのよ」
「あ?」
「友人が苦しんでるのを岸辺から声援なんて、あたしの柄じゃないわ」
「……」
「痛みを分かちあえないからこそ、せめて、その痛みを耐えきるために掴む杖にでもなりたいのよ」
「そういうもんかね」
「そういうもんよ」
 横になったままサナは深い雨林の匂いを吸い込んだ。雨と潮と濃い木々の甘いような籠もった匂いだった。
 いつのまにか雨は止んでいたが、現在自分自身がずぶ濡れなことも、雨林自体が多くの水気を含んでいることもあってか、雨の気配はまだしっかりと残っていた。
「少し落ち着いたら、璋子をもっと暖かい場所で休ませなくちゃ。毒を完全に抜く必要はあるし、リリスにも早く行かないと……」
「リリスに何の用があるんだ」
「色々と事情があるの」
 火の粉がぱっと舞いながら、カヌエの横顔を照らす。眉間に深いしわを常に作っているし、口調はそっけないので酷く不機嫌にも見える。
 喜音の無表情とはまた違う。
 いや、全然違う。会ったときからどことなく、カヌエは――
「怒って」いる――
「その女、月喰いだな」
「!」
「回復したら、とっとと出て行け。偶然とはいえ拾っちまったものの面倒は、最低限見るが、俺は月喰いやヌハにはいっさい関わりたくねーからな」
「……判った」
 短く了承の言葉を言うと、意外に思えたのかカヌエの視線がサナに流れた。
「なんだ、もっと喰いついてくるかと思ったが」
「時と場合と状況を選ぶわよ」それに、とサナは言った。「月喰いだって判ってて、それでも見逃してくれるなら、それが一番楽」
 今、カヌエに襲われたら璋子を守れる自信はない。そう考えると少しでも体力は残しておいた方が良かっただろうかとサナが、内心でしかめっ面をしていると、その心を読んだのか、カヌエが短く笑った。
「今、殺すのは簡単そうだな」
「……そうね。そうかもね。でもあんたもきっと無事じゃすまないわよ」
 若干警戒しながらサナが言った。
「俺が?」
「ええ。浜に残してきた中に――」
「ああ、」嫌そうにカヌエが唸る。「確かにキネとか言ったのには勝てそうにないな。その女殺したら、確実にあいつに俺は殺されるな」
「……」
「その女、月喰いってことはワデンの人間じゃないんだろ。お前はワデンの人間だ、そうだな?」
「ええ。スミフシのワトー族よ。ドゥートゥムで知り合って、無理矢理この子の旅についてきたの」
「酔狂なこった」
 鼻でカヌエが笑う。
 だがサナも笑った。
「ほんとにね。でももう駄目なのよ」
「……」
「この子が無事、自分の世界に戻るところを見るまでは、私は側を離れられない」
「何で」
「ほっとけないからかな。一人じゃ持てないでしょ?ていうのをこの子はまず自分の背中に背負おうとする。阿呆よ。だって自分の世界のことでもないのに底抜けのお人よしよ。それから、……そうね、料理おいしいし、たまにお金のことになると銭婆になるのもかなり笑えるし、……何より、」璋子の前髪をなで上げた。「私の親友だからよ」
「……そりゃ、お美しいことで。でもお前も判ってるんだろ、五ツ月が崩落したことは一度もない。誓王と大神官が悉(ことごと)く、ヌハを見つけては生け贄にしてきたからな」
「知ってるけど、だから必ず今回もそうなるとは限らないでしょ」
 カヌエはサナの言葉に目を見開いた。
「まさか……崩落させるとでも言うのか。ヌハを守るとでもいうのか?」
「さぁね。そんなことまではまだ遠すぎて判らないわよ。でも、この子だってただ迫害されるつもりなんて毛頭ないと思うけど。……この子、なめてたら痛いめに遭うわよ」
「……」
 押し黙ったカヌエを見上げてから、サナは大きく欠伸をした。暖かな火の側にいて、急激に自分も眠くなってきたのだ。
「ちょっと少しだけ、寝かせて」
 カヌエの返事を聞く前にサナはすとんと眠りに落ちていた。



 トルティンケの音色が響く。
 息を吹き込む管が本体の中を巡って、指が押さえた穴の封じ具合によって音色が変わる。
 古典楽器として親しまれているが、指の少しの加減によって音が変化することから非常に気難しい楽器として知られている。
 トルティンケの音色は、ワデンに住む人々の心をかき鳴らす。貴賤を問わず、それは遺伝子に組み込まれたかのごとく、もの悲しくも温かい思いを沸き立たせる。
 そのとき、タンドリアは外にでる用事は無かったはずだった。何しろ彼の感覚は、大きな雷雨を伴って海が荒れていることを知っていたから。
 ふつうならそんな時に外に出かける馬鹿はいない。雨林の中をタンドリアは知っていたが、知り尽くしては居なかった。
 知り尽くすことなど出来るだろうか?
 あのカヌエですら、そうは思っていないだろう。ぶっきらぼうでどこか冷めた口調で話す青年の心の奥に、堅く閉ざされた冷たい怒りがあることを知っている。
 タンドリアはそれをどれほどの人間が――部落の者たちは知っているだろうかと考える。しかし知る必要もないことだろうし、彼自身、カヌエにそのことを問うたことはない。
 ただ、たまにふらりとこの外れの小屋まで来て、黙ってトルティンケの音色を聞いていく。その時間はタンドリアも気に入っていた。
「ううん、なんだっていうんだ?このぴりぴりした空気。雷雨でも時化でもない、この変な感じ」
 タンドリアは立ち上がると、小屋の入り口に垂れ下がっていたバルバルの大きな葉を手で押しのけた。
 辺りの空気がどうもおかしい。
 未だ強さを残している雨の音を耳でとらえながら、ため息を一つつくと、やおら小屋から出た。とりあえず気になる方角へ行くしかないだろう。
 足の裏に雨の膜を感じながらも、タンドリアは雨林を突っ切る。どうやら裏の浜辺の方に「なにか」あるようだ。
 近づいていくと、海鳥たちが騒いでいた。その騒ぐ中心を見ると小舟があった。驚いてタンドリアは立ちすくんだ。
 人?
 足早に近寄ると小舟の中をのぞき込み、「こりゃ大変だ」と呟いた。
 死体のように真っ白な肌をした女が一人舟の底に横たわっていた。女の腹部にはぐるぐるに巻かれた布切れがあったが、時間が経過して赤黒くなっている血が滲んでいた。どうやら衣服を切り裂いたようだ。
「おい、あんた、」触ってから手の甲を唇に押し当てる。微かに、もうあと少しで死神が手をかけようとしている虫の息にタンドリアは慌てた。「こりゃ、本当に大変だ。何とかしなければ」
 女を抱き抱えると、来た道を急いで戻り始めた。



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