動けば波紋は広がって、誰かへと伝わっていく
第百三十二話 カヌエ



 激しいにわか雨と轟く雷に打たれながら、バルバルの葉で覆われた軒先は先ほどから不揃いの音を奏でている。
 黒々した雲の隙間から迸る雷を見て、男は眉を顰めた。
「どうした、カヌエ」
 部屋の奥にいたおばばが陰の中から声を出す。
「ドゥヌハイの雲が見えんだよ」
「おや、もうそんな時期だったかね。少し早すぎるよ」
「ああ。だがあの雲は確かにドゥヌハイの雲だ」
 海の底に住む潮主と呼ばれる魔物。
 それが呼びよせる黒い雷雲は雨期の、もう少し後に発生し、酷いときにはこの辺りにまで潮流の変化を起こす。
 島の先にこんもり見えているヘダイやバルバルの葉がなぎ倒されんばかりに揺れているのが見えた。
 カヌエと呼ばれた男はじっと空を見つめた後、矢筒と曲剣を手に取り腰に差した。
「ちょっと出るわ」
「気をつけるんだよ」
 おばばの言葉が終わる前に姿は消えていた。



 外に出ると瞬く間に裸の上半身に雨が当たる。カヌエは小さく舌を出すと雨を舐めた。潮の味が普段より濃い。これはドゥヌハイの雲が海を巻き上げて作った雨だからだ。
 足の指合間にじわじわ水が浸水してくる。この分だと小川は既に溢れて、小魚たちが迷走しているだろう。
「ちっ、」
 せっかく三日間、ホラトウの仔に仕掛けた罠がむなしくも流れているのを想像して、舌打ちをする。
 おばばのホラトウ揚げは毎年の楽しみだというのに。
 森の中、軽やかに羊歯(しだ)を踏み、苔を飛び越え、木の股を潜って向かった先は浜辺。そこからならドゥヌハイの雲もくっきり見える。
「あれ、カヌエ!」
「よぉ」
 反対側から同じようにびしょぬれになった男が飛び出してくる。魚籠を持っているが竿がぼっきり折れていた。
「まさかカヌエ、今から釣りか?」
「んなわけあるかよ」
「だよな、さすがのカヌエだってこんな天気で釣りはしないよなぁ」
「そういうお前は釣りをしてすっかり駄目にしたみたいだな、ダダ」
 ダダと呼ばれた男は眉毛を八の字にしてみせた。
「だってよぉ、魚釣って帰らないと、トユの奴が尻叩くんだ」
「相変わらず敷かれてるな」
「相変わらずだ」
「んじゃ、トユに言っておけ。カヌエが今日は海でも川でも魚は釣れない。ドゥヌハイの雲が踊ってるからと言ってたってな」
「ドゥヌハイ?」ダダが目を見開いた。「こんな早くに?」
「ああ、恐らくな。俺はそれを確かめに浜へ行く」
「んなら、俺も――」言い掛けたダダは気まずそうに表情を止める。「あ、いや、……トユが待ってるから俺は戻る」
「そうしろ。お前がついてきても足手まといなだけだ」
 ひょいと片手をあげると、あっという間にカヌエの姿は消える。軽やかな、水を跳ねる音だけを残して。
 ダダは感心したように、もう音すら聞こえない方角をみた。
「トユが未だにカヌエはデイラだって言うのは、本当だよなぁ」
 デイラ。
 それはこの雨林に住む小さな部族の言葉で「森を一番に駆ける者」に与えられた称号だ。
 若きも老いも、男である限り、一度はその名を自分に向かって言われたいと願う。その輝かしい名は、カヌエが生まれてから僅か八つの時に冠され、それ以降名を譲られた気配はない。
「……と、早く戻らないと」
 ダダは慌てて部落へと足を向けた。



 大事なことは、この雨林とおばばに教わった。
 カヌエはそう思っている。
 母が三年前に死に、父はすっかり意気消沈して弱くなったが、二人元気な時から、カヌエは知りたいことがあればおばばに聞きに行き、それでも足りないときには雨林に出向いた。
 大怪我をしたこともある。変なものを食べてうなされたことも。それでもカヌエにとって雨林はいつまでも慕わしい兄弟だった。
 飽き性のカヌエ。
 そう、周りの友人等にからかわれるが、たった一つだけ異例があるとすれば、この雨林だ。
 あとのことは、かなりどうでもよかった。自分の将来のことも、女のことも。
(ま、将来なんてな……別にあってないようなものだし)
 茂みを飛び越え、カヌエは砂浜を踏んだ。
 荒々しい波が砂の上に乗っては引き、飛沫をあげている。
 じっと目を凝らすと、やはり空を覆うのはドゥヌハイの雲と呼ばれるものだと確信する。あの蜷局(とぐろ)を巻いたような不気味な雲をまるで映したかのように、幾つも海面にも渦が出来るのだ。
 だがこの妙な胸騒ぎ――というのか微かな興奮は何だというのだろう。雲から目を離し、岩場へ向かっていくと人が複数倒れていた。
「!」
 波に引きずられ逆さまになっている短艇の側に男と子ども、それから女。少し離れたところに男。
 それから別の場所に女と男が重なり合うようにしていて、その脇に獣が一匹。
 駆け寄って仰向けにする。皆、一様に唇は真っ青だったが、確かめていくと息をしている。
 獣がいち早く目を覚まし、カヌエの姿を見ると威嚇するように唸った。カヌエは片手をあげて手首を見せる。
「落ち着け。危害なんざ加えねーよ」
 ふー、ふー、と唸りつつ、カヌエの言いたいことを理解しているのか飛びかかってはこない。単純そうな動物の割に知能はあるようだ――警戒は完全に解いてはいなかったが。
 しかしこの人数、一体どうしてここに――。
「!」
 折り重なっている男女、その女が握っている杖を見るとカヌエの顔色が変わった。
 セギュランテの杖。
 何番目かは知らないがヤモリが掘ってある。おばばに教わったのだから、間違いなくリヴァの杖だ。
(これを持てるのは、……待てよ、まさか、)
 そんな馬鹿な。
 じりりと後ずさった。
 カヌエの心にはまだ驚愕が多くを占めていたが、次に浸食してきた感情は恐怖と憎悪だった。
 想像したことは何度もある。
 だが、実際にその場になってみると、やっぱりこんな単純に感情が膨れ上がった。いつもならそれを斜に構えて薄笑いしたいくらいだが、如何せん笑えなかった。
 こんなことになるなら、浜になど来なければよかった。それかダダを連れてくればよかった。
 険しい顔でうつ伏せの少女を見下ろす。
(判ってる。殺したって、しょうがない)
 判っている、そんなこと。
 そう思いながら腰に差した曲剣の柄を握り、ぬらりと抜いた。
 これで柔らかな喉を一突きすれば――
「!」
 女の上に被さっていた男が僅かに顔を上げて、じっとこっちを睨んでいた。それこそ唸るでも飛びかかってくるでもない。
 だのに、足が踏み込めない。
 まるで雨林でうっかり獣の行動範囲に足を踏み入れた時のような感覚に陥った。相手は自分を値踏みしている。
 そう――、この獲物を殺すべきか否か、という――
 これ以上踏み込めば――。
(……な、んだ、この男)
 じっと黙ったまま睨み合うも十数秒。カヌエも決して馬鹿ではない。剣をしまい込むと何もしないという意味を込めて両手をあげた。
「とりあえず投げ出されてるお前たちを、浜辺から遠ざけたいんだが」
 得意ではないし、まるで使いたくない言語だったが、古代ワーデルタ語を使った。一応これが共通言語だから、仕方がない。
「判った」
 男はゆっくり立ち上がる。
 均整のとれた体躯に怜悧な容姿。思ったよりも若い。
「流されたのは、そこにいる奴らで全員か」
「……ああ、そうだ」男がぐるりと視線を動かして、ほっとしたように頷く。それから足にまとわりついていた獣の頭をなでる。「怪我はないか、ミモザ」
 んーふー。
「仲間をどこへ運べばいい」
「とりあえずは雨林の側まで運ぶ。小さいが掘っ建て小屋があるし、備えの薪もあったはずだ」
「判った」
 余計な言葉は言わない男にカヌエは好感を持った。自己紹介は後でいい、とにかく仲間の救命活動と決めているのも判りやすい。しかもこんな漂着した後だというのに、冷静だ。
(しかし……気色悪いほど綺麗な発音してやがる)
 カヌエと男は黙ったまま倒れている人数だけ小屋と浜辺を往復し、小屋においてあった枯れ枝でたき火を作った。
 浜辺に散らばった荷物をかき集めて戻ってきた男は、火を見ると目を細め、荷物を隅に置いてカヌエに頭を下げた。
「助かった。俺は喜音滋治(きねあさはる)だ」
「キネアサハル?長い名だな」
「喜音は名字で、滋治が名だ」
 カヌエは名字と名前の区別が判らなかったが、とりあえず頷いた。
「俺は」じっと喜音を見た後、言った。「カヌエだ」
「カヌエ。さっそくだが、ここはどこだ?ニールビア諸島だとは思うんだが」
「合ってる。諸島の中でも二番目に大きいシヤカム島だ」枝を火の中に投げ入れる。「もっと東に向かえば、リリスがある」
「そうか」火の明かりが当たった顔は、青白く、目元も窪んでいる。カヌエはそれが気になった。「俺たちは港町レガントからリリスを目指していたんだが、途中で潮主の渦にあって、乗っていた定期船が浸水を起こした。それで短艇に乗ったんだが他と切り離されて、俺たちだけここに漂着した」
「レガントから?てことは、潮に乗ってきたにしても、」
「ああ。二日はずっと流されてきた。幸い荷物は持ち運んでたから、水や食料は問題なかったんだが最後にでっかい波に飲まれてな」
「そりゃ災難だったな。ドゥヌハイの雲が出現するのはもっとずいぶんと後の筈なんだが……」
「ドゥヌハイの雲?」
 カヌエは潮主と呼ばれる魔物が起こす黒い雷雲のことを、自分の部族はそう呼ぶのだと説明した。
「う」
 横になっていた仲間の一山から声があがる。身じろぎして動いたのはサナだった。
「気づいたか」
「……キネ?ここ、」
 ぼんやりしながらもサナが身体を起こすと、次に家坂(いえさか)が起き、バイスが起こされ、レンが目を開けた。
 皆、小屋の中にいることに当然戸惑いを見せたが、簡潔に喜音が説明をすると、たき火の向こう側で自分たちを見ているカヌエという男を改めて見やり、それぞれ感謝の言葉を述べた。
 年齢は恐らくバイスと同じくらいか、それより上か。何よりも。
「珍しい髪の毛ね。真っ白」
 サナが不思議そうにカヌエの長い髪を見た。腰まで伸ばされ、長くザンバラではあったが、雨を吸って艶々している白い髪は、触ってみたくなるほど美しかった。
 カヌエは、だるそうに髪の毛をちらりと見ると、「そうか?」と言った。
「俺のこんな色抜けな髪よりも、そっちの金髪のほうがよっぽど何かを連想させて珍しいが」
 見つめている先はバイスの金髪だ。
「ムロ族か?母親がたぶん、ムロ族の血だったんだろうが、俺は生まれたときからずっとシーシアの村で育って生きてきたから神官とはまるで関係がないぞ」
「へぇ」しかしカヌエは唇を歪めて見せた。「ムロ族の中にも、そんな変わり者がいるんだな。いや、あの一族を抜け出すなら常識人ってとこか」
 やけに含みのある言い方だ。
「あの、」レンがそこで口を挟んだ。「まずはお姉さんの解毒を何とかしたいんですが……」
 小屋の薄暗闇で一人まだ眠っている少女に皆の目がいく。サナが同意するように頷いた。
「そうね。ええと、カヌエだったかしら。貴方の村に薬草はある?」
「解毒?」怪訝な顔をしつつ、カヌエは璋子を見た。「薬草は何が欲しいんだ」
 喜音がトゥルネルケパーレに教わった薬草のすべての名をあげると、じっと黙った後、「そりゃ四肢を麻痺させる毒だな」と呟いて、璋子(たまこ)の側までずだずだと歩いていった。
 よく見ると、彼は裸足だった。
 上半身裸だからか、裸足でもまるで違和感はないのだけれど。
 それからおもむろに巻いてある包帯を剥いで、左肩をむき出しにした。
「ちょっと、!」
 サナが慌てて止めようと駆け寄ったが、カヌエが見ている傷口を見て顔を強ばらせた。璋子の肩から肘と、首筋から胸元にかけ、どす黒く変色していた。
「毒が回ってきてるな」
「……こんな、酷い」
「少しは毒の周りを遅くしたのが、まぁ、少しはかろうじてほんのちょっぴりは役立ってるといいけどな」再び歪んだ唇に言葉を乗せると、振り返った。「薬草の煎じは後だ。それよりも直接身体から溜まった毒を抜く必要がある」
「そんなこと、できるの?」
 家坂が震える声で言った。
「ああ。かなり荒療治だがな、それくらいしないとこいつ結構やばいと思うが」
「判った。どうすればいい」
 喜音は即答する。
「このオミクレー雨林の中に万癒の泉がある。そこに連れて行く。不思議な泉で、大抵の怪我や病気を治してくれる」
「それはすごいけど……そんなものが雨林に存在していることなんて、知らなかったわ」
「ああ、泉の水は泉を離れたらただの水になるし、そこに行くまでには俺たちのように住んでいる者の案内が必要だし、なにより」カヌエが目を細めた。「オミクレー雨林には恐ろしいものが生息しているからな。誰も入りたがらない。お前たちみたいに意志関係なく漂着してしまった者以外はな」
「じゃあ、その泉に行こう」
 バイスがいうと皆が立ち上がった。だがカヌエは頸を振るった。
「悪いが、それでもおいそれと泉にこんな人数を連れて行くわけにはいかない。俺がこの女を泉まで運ぶ」
「……」
 喜音がじっとカヌエを見つめた。
「信用ならないというなら、これまでだ」
「そんな、」
 レンが声をあげかける。
「判った。いいわ、あんたが運んでちょうだい」サナが緊迫した空気を割った。そしてカヌエに近寄ると、大きな目で睨みつけた。「ただし!あたしだけは連れていきなさい」
「は?」
「大人数でいけないことは判ったわよ、それはあんたの言い分を優先する。でもね、タマコは女の子で、泉に入れるなら、この中で唯一の女である私がその役目を負うのは当然でしょ」
「俺がただ放り投げて入れればいいだけだろ」
「あ?もっと判りやすく言ったろか?」サナの口調が酷くなる。「裸になったタマコにお前がなにすっかわかんねーから、ついてくって言ってんだよ?」
「はああ?俺が、この毒で見るも無惨な欲情する余地なし女に何するっていうんだよ、阿呆かお前」カヌエはサナに顔を近づけて凄んだ。「言っておくがな、俺の好みは乳が大きな女だ。お前みたいな前と後ろの区別が付かない女よりは、確かに――ふむ、あの女はかろうじて許容範囲だが、それにしても――」
 カヌエの身体が弧を描いた。
 オミクレー雨林がワデンに存在してから、未だかつて、こんなにも美しい弧を描いて人が雨林で吹っ飛んだことはないだろう……
「……って、喜音、何をナレーションしてるんだよ!」
「で、でました、ふっとびやんこ」
「おら、立てや。さっさとタマコを横抱きして優しく運べ」
 サナが顔から茂みにつっこんだカヌエの臀部を踵で叩く。
「サナちん……怖い」



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